なぜ「戦争」を伝えるのか(2007年08月02日)

鈴木 千佳 (スズキ チカ)
文学部文学科英米文学専攻
第40回「湯の花トンネル列車銃撃空襲」プロデューサー

十五日に終戦記念日を迎えるにあたって、毎年八月の『多摩探検隊』は戦争と平和をテーマに制作している。今回取り上げたのは、昭和二十年八月五日に八王子市裏高尾町の湯の花トンネル付近で起きた列車銃撃空襲だ。新宿発長野行きの中央線下り419列車がトンネルに差しかかったとき、米軍戦闘機P51の銃撃に遭った。偶然乗り合わせた空襲の犠牲者は、死傷者約188名(うち60名以上が死亡)で、国内最大の列車銃撃と言われている。
私たち取材班は六月中旬に打ち合わせを行い、「中央本線四一九列車」の著者、齊藤勉さん(49)に当時銃撃を受けた被害者の遺族関係者を紹介してもらい、取材を重ねた。その過程で、戦後になって空襲の現場付近に犠牲者の名を一人ひとり刻んだ慰霊碑が建てられたことが分かった。生存者や遺族、地元の人々が集い、犠牲者を供養するため、毎年この慰霊碑を囲み慰霊祭を開いている。
私たちも今年の八月五日に、燦々と照りつける太陽の下、この慰霊祭に参加した。六月から続けている取材のお礼として準備を手伝っているクルーの傍らで、私はある大学生と話をした。彼女は一緒に来た祖母を見やりながら、「ばあちゃんがあの時死んでいれば、私はいなかった」と私に語った。彼女の祖母は419列車に乗っていたが、一両目に座っていたので銃撃を免れたという。献花を終えた彼女は腰の曲がった祖母の手をしっかりつなぎ、ゆっくりと慰霊碑の前の坂を下って行った。この言葉を聞いて、私は取材で出会った黒柳美恵子さん(75)の言葉を思い出した。
「姉がいたら、きっと子どももいたと思うの」。
美恵子さんはこの空襲で、目の前でお姉さんを亡くした。彼女は当時13歳で、五つ上の姉の良子さんと、夏休みを利用して長野県の祖母の田舎に疎開するところだった。美恵子さんは進行方向の反対側、良子さんは進行方向の座席に座っていた。そして、湯の花トンネルに差しかかったとき、悲劇は起きた。
「生きていれば、こういう時代を一緒になって味わえたけどね」。美恵子さんは最後に寂しそうな目をしてそう言った。
この空襲で、ある人は生き残り、ある人は亡くなった。一瞬にしてその後の人生をこうも分けてしまう戦争の悲惨さを実感した。こんな悲劇は二度とあってはならない。
私たちが取材を続け、作品が完成するまで手を止めなかった理由はここにあると思った。人々にあまり知られていない事件を私たちが伝えることで、それが「地域の記憶」として残っていく。こんな悲劇を繰り返してはいけない、そう伝えることが私たちの使命だ。
これからも、八月の『多摩探検隊』は戦争と平和をテーマに取材をしていく。もう二度と、戦争という惨劇が起こらないようにと願いをこめて。

投稿者 webmaster : 2007年08月02日 12:00|

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