2つ目のラストカット(2007年07月02日)

池内 真由 (イケウチ マユ)
法学部政治学科
第39回「シリーズ多摩の酒⑤」プロデューサー兼ディレクター

「―こうなったら自分でやるしかない」。ディレクターが決まり、番組のレポーターとナレーションの担当者を考え、悩んだ末の結論だった。後日、番組プロデューサーも担当することが決まり、多摩探検隊始まって以来の、一人四役の番組制作が始まった。
取材先は、渡辺酒造合名会社。多摩探検隊でシリーズ化されている東京の酒蔵シリーズの5作目である。女社長、日本で初めて雅楽を聴かせて作ったお酒…。渡辺酒造にはいくつもの「ネタ」がそろっていた。中でも私が注目したのは、今では珍しい「出稼ぎの杜氏」だった。
小野寺運次郎さん(75歳:取材当時)。杜氏である小野寺さんは秋田県の山内村から、東京に約30年間出稼ぎを続けてきた。小柄ではあるが、背筋がスッとのび、青い作業服と黒の長靴、手には軍手をはめた姿で蔵人に支持する様子は、長年の杜氏としての威厳に満ちていた。
酒造出稼ぎは、江戸時代中期頃に始まった。小野寺さんの出身である山内村においては、大正から明治にかけて盛んになった。肉体的にも精神的にも厳しい仕事だったにも関わらず、地元地域、各家庭にもたらした経済的効果は大きく、その当時は憧れの職種とも言われていた。
小野寺さんが就職を考えたとき、終戦後の山内村では、農閑期となる冬に仕事がなかった。そして、多くの男性が志望したように小野寺さんも酒造りの道を歩むことになった。その時、小野寺さんは16歳だった。
酒造出稼ぎは、酒造工場の機械化、高度経済成長の波とともに、減少していく。現在では東京に13ある酒蔵で2軒しか出稼ぎの杜氏はいない。
毎年の長期の出稼ぎ、早朝から深夜にわたる作業を思えば、杜氏を志す後継者が減少して言ったのも頷ける。それゆえに、取材を進めるうちに、私は杜氏さんが約30年間続けることのできた理由が知りたくなった。
「杜氏さんにとって、お酒造りとはなんですか」。恒例の、ラストコメントへ導く下りである。その時、思わず、私は本編とは関係なくもう一つ別の質問をしていた。「なぜ、お酒造りを続けることができたのですか」。好奇心から出た質問だった。「吟雪でなければ、と言ってくださる方が大勢いますので」。小野寺さんの原動力は、渡辺酒造の銘柄「吟雪」、それを守り続けるためだったのだと感じた。
何かをやり遂げようとする時、無意識であれ、意識的であれ、なんらかの原動力がある。一人四役の、まぶたを擦りながらの番組編集の中で、私は自分にとってのそれが何であるかと考えた。何度も編集チェックをしてくれる先生やゼミ生、そして出来上がるのを応援してくれた友人、家族、そして出来上がったあとに見てくれる誰かを思い浮かべた。

投稿者 webmaster : 2007年07月02日 12:00|

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