小さな工房で働くステッキ職人が教えてくれたこと(2006年07月01日)

勝又 千重子 (カツマタ チエコ)
総合政策学部政策科学科
第27回「ステッキ職人 ~作り続けて50年~」ディレクター

私の将来の仕事ってなんだろう?一生やりたい仕事なんて見つかるのかな?就職活動を控えた3年生ならば、誰もが考えたことがあるだろう。

4月の中旬、私はそれを確かめるために、カメラと三脚というおよそ女の子らしくない格好でバスを降りた。八王子にいる日本一のステッキ職人に会うためである。彼が作るステッキはなんと、126万円もの値段で日本橋三越本店に置かれている。

工房に顔を出すと、磯部さん(78)がいつものように頭に手ぬぐいを巻いた姿で出迎えてくれる。「あれ?勝又さん、痩せたんじゃないの?」と開口一番に言った磯辺さんの言葉を聞いて、初めて取材に来た日からの時間の経過を感じた。その時を含めると磯部さんの工房を訪れたのは6回目。お互い相手の顔を見て、ちょっとした変化にも気づくほど私と磯辺さんの距離は縮まっていた。私がそこまでして磯辺ステッキの工房に通い続けたのには理由があった。

私は是非、磯部さんが50年以上も毎日ステッキを作ってきた理由を知りたかったのだ。それはただ単にステッキ作りが好きだからとかいう概念を超えているような気がしていた。なぜなら、磯部さんは旅行に行ったり、好きな物を買ったりすることもなく、ひたすら毎日ステッキを作ってきた人なのだ。ステッキを持って話す彼の、しわくちゃで傷だらけの手を見て思った。何かがあるはずである。

そもそも、昭和33年に創業した磯辺ステッキは、元々はステッキ問屋に勤めていた磯部さんが、自分にしか出来ない事をやりたいと脱サラをして始めたもの。創業当時は奥さんの環(たまき)さんが一緒に経営をしていた。ステッキ作りの傍ら営業に出ていた磯部さんを、経理の面でサポートしたのが環さん。文字通り、二人三脚でのステッキ作り。ゼロから始めたのだから、失敗もたくさんしたという。それでも、二人だから頑張れた。そんな環さんが肝硬変でこの世を去ったのは10年前の冬。インタビューで奥さんへの感謝の気持ちを引き出そうとしたのだが、肝心な磯部さんの奥さんに対する気持ちが撮れないでいた。何度質問を変えて聞いても「そんな事聞かれても、無いなあ。」と答える磯辺さん。それでも、奥さんの話をする時はすごく楽しそうに話す彼を見て、このインタビューを諦める気にはなれなかった。

そして6回目の取材が近づいたある日、私は磯辺さんのある気持ちに気がついた。
磯部さんは、長年連れ添い、自分の一番近くにいた人にありきたりな言葉では感謝の気持ちが表せなかったのではないかということだ。取材の日、私は彼に「奥さんと二人でインタビューに答えてもらいたかったです」と正直な気持ちを伝えた。すると、奥さんの話をする時はいつも楽しそうに話す磯辺さんの表情が変わった。「昔は800円ぐらいだったステッキが126万円で売れるようになった今だったら、楽をさせてあげられたのに」。磯部さんはそう言ってうつむいた後に「でもしょうがないよね、病気になっちゃったんだから」と元の笑顔になって言った。彼の奥さんに対する精一杯の気持ちが表れた瞬間だったと同時に、私が初めて磯部さんの心に触れた瞬間だったと思う。

私はこの作品の最後を「小さな工房で作られた日本一のステッキには、磯部さんの50年間の人生が詰まっています。」という言葉で締めくくった。彼の50年間には、支え続けてくれた奥さんの姿が確かに刻まれているのだ。6回目の取材の帰り道、咲き誇る菜の花を見ながら取材が楽しいと思った。私にも、一生やりたい仕事というものが見つかったのかもしれない。

投稿者 webmaster : 2006年07月01日 12:00|

コメント

コメントしてください




保存しますか?