「戦争と平和」を伝えるために(2005年08月02日)

Haruka Ishiguro石黒 悠 (イシグロ ハルカ)
総合政策学部国際政策文化学科
第16回「多摩探検隊」番組プロデューサー

「これらの戦跡は、60年の時をこえて私たちに平和の尊さを語りかけているのではないでしょうか…」。
出た。安っぽい台詞をキャスターが読み上げる。自分で考えた台本なのに・・・。
私は今日撮ってきたばかりのテープを巻き戻した。これでもう何度目になるだろう。スタジオ撮影をしたその日は7月半ば。長びく梅雨の中、じっとりと蒸し暑く、光化学スモッグとまじった曇り空は余計にスタジオを白々しく見せていた。

今年は太平洋戦争終結から60年。新聞各紙、TV各局では、「戦後60年」と銘打った特集が次々と組まれていた。もちろん私たちもその例にもれず、8月放送分の「多摩探検隊」は、特別企画として「戦争と平和」をテーマに制作することになっていた。そして、私はその記念すべき回の番組プロデューサーだったのだ。

戦争の悲惨さを告発し、平和を訴える映画やドラマ、小説は数知れない。そしてそんな作品に触れるたびに、私は共感し涙する。しかし考えてみれば、たかだか二十やそこらの若造が格好つけて「平和の尊さ」を叫んでみたところで通用するわけがないのだ。だって私たちは戦争を経験したことがないのだもの。説得力がなさすぎる・・・。

本編もできあがっていた。スタジオも撮影した。あとはそれらを編集でつなげるだけだった。しかし、この場におよんで、私は自分がただの空虚な若者であることに気づいてしまったのだ。キャスターの口から発せられた薄っぺらな言葉たちは、四角い画面の中を行き場もなくさまよった。

高尾駅の戦跡
とにかく、どうしてもこのスタジオだけは許せなかった。追い詰められた私は頭を抱えた。そして、さんざん悩んだ末、スタジオを入れる代わりに本編では取り上げることのできなかった多摩地区に現存する戦跡を紹介することを思いついたのだ。JR高尾駅のホームの柱に残る弾痕、高幡不動尊の黒松の松根油の採取跡、終戦直後に衝突事故にあった復員列車の車輪など・・・。多摩地区にはたくさんの戦跡が残っていることは、それまでの資料集めで分かっていた。太平洋戦争といえば東京大空襲のイメージが大きかった私にとって、多摩地区にこれだけの戦跡があるという事実は、それだけで驚きだった。

「よし、これでいこう」。私は高尾駅に向かった。早朝の高尾駅ホームで例の柱を探す。「あった!」ホームを歩き回る私の目に、他とは明らかに異なる柱が飛び込んできた。錆びかけたその鉄柱の上方には、銃弾がえぐりとった生々しい傷跡が間違いなく残っていた。しかしそこにはその存在を知らせる看板すらない。都心へ急ぐ通勤ラッシュの時間帯、人々は一人宙にカメラを向ける私に異様な視線を送っては足早に列車の中に滑り込んで行く。よもやここで60年前に何が起こったのかを知る人はほとんどいないのだろう。なんとももどかしかった。私たちの住む多摩にも戦争の事実はあった。そして今でも皆の身近にその傷跡が残っている。もっとこのことを知らせたい!

私は人目も気にせず必死にカメラを回し続けた。

その後も、ネットで場所を探し、人に聞きながら、戦跡をカメラに収めていった。使命感に燃えた私の心は高揚していた。そして、第16回「多摩探検隊」は完成した。

8月某日、私たちは出来上がった作品をたずさえて八王子で開催された「疎開児童の集い」に参加した。10分間の作品を上映した後、番組のチラシを配って歩く私たちに、参加したお年寄りの方々が「なかなか上手くできているね」。「こういう活動をしてくれる若い人たちがいてくれて心強いわ」。「ありがとう」。と、口々に暖かい言葉をかけてくださった。そんな皆に笑顔で答えながらも、私は胸がいっぱいになって泣きそうになるのを必死でこらえた。えもいわれぬ充実感が体を満たしていた。

声高に平和の尊さなんて語れない。それは戦争を知る人しかできないことである。しかしこの日本にも、過去に戦争があった事実を、戦争を体験した人々の声をカメラで記録することによって伝えることなら私にもできる。
今回この番組をいったいどれだけの人が見てくれたのか、分からない。しかし、朝の忙しい足を止め、一本の柱を振り返ってくれる人が一人でも増えたなら、そう願ってやまないのである。

投稿者 webmaster : 2005年08月02日 12:00|

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